5月5日



「ヒバリっ」

エレベーターを降りて辺りを見回していると弾んだ声で名前を呼ばれた。
声の元を見ると扉の隙間から獄寺が顔を出して小さく手招きしていた。
そんな獄寺を見て笑みが零れる。

今日は僕の誕生日。
連休前に獄寺から渡された白いカード。それは獄寺の家で誕生日を祝うので来て欲しいという事が書かれた招待状だった。
自分の誕生日なんて今まで興味が無かったけど、恋人が色々と計画して祝ってくれようとしている事で、自分の誕生日が…と言うよりもそんな獄寺の行動が微笑ましくて、嬉しくて…初めてその日を待ち遠しく思えた。

僕を迎えてくれた獄寺は黒いエプロンを着けていて、僕がその姿に驚いていると彼ははにかんで、小さく笑った。
初めて訪れた一人暮らしの恋人の部屋に、愛らしい恋人…僕の心拍数は増す一方。

「メシ作ったんだ。…腹減らしてきたか?」
「うん」

彼から貰った招待状には「しっかりお腹を空かせてくる事」という指示がご丁寧に書かれていたので、僕はその指示通りに朝ご飯を食べずにお昼時である今、此処を訪れていた。
通されたリビングのテーブルの上にはすっかり食事の用意が整えられていた。
僕の好きなハンバーグ。
見た目も美味しそうなそれからは食欲をそそる匂いがしていて、僕のお腹はキュゥと小さく鳴いていた。

「今ご飯と味噌汁持ってくるから座ってろ」

僕の肩を押して獄寺はキッチンへと駆けて行った。
細い腰に結ばれたエプロンの紐がひらりと翻って、それはまるで僕を誘っているように見えて思わず手が伸びそうになる。
それはまるで素敵なプレゼントのラッピングのようで、獄寺にとてもよく似合っていた。
その包みの中身がとっても魅力的だという事を僕はもちろん知っているけど…でも、その中身をもっと知りたい、堪能したいという気持ちは日々増すばかり。

……付き合って数ヶ月、僕達はまだキス以上の関係には進んではいなかった。
あわよくば今日…と考えているんだけど…リビングに向かって設えられたキッチンでは、獄寺がやけに真剣な表情でご飯と味噌汁をよそっている。
この様子じゃ今日も厳しいかな…。

ソロソロと慎重な足取りでリビングにご飯と味噌汁を運ぶ獄寺。
カウンター式に対面しているので、そこから運べばいいのに…と思って声を掛けたが「黙ってろ!」と言うオーラを全身から出しまくっていたので名前を呼んだところで口を噤んだ。
ようやく全てが無事に揃って、二人で向かい合って椅子に腰掛ける。

「ヒバリ。誕生日おめでとう」
「ありがとう。もうお腹ペコペコ。食べてもいい?」
「お、おう。食べていいぜ」
「いただきます」

僕が食べる様をまじまじと見詰める獄寺。
ちょっと照れくさいけど、彼が気になる気持ちも分かる。
獄寺が料理が苦手な事を知っていたから…でも、口にしたそれらは、どれもとても美味しくて、だからそんなに心配しなくても大丈夫なんだけどな…。

「おいしいよ」

彼を安心させる為というのもあるけど、食べたハンバーグは本当に美味しくて、心からそう思って告げると、緊張していたらしい獄寺はほっと小さく息を漏らし、安堵の笑みを浮かべた。
そんな彼を見て僕も自然と笑みが浮かぶ。
自分でも呆れる程優しい声で語り掛けたり、自然と笑みが浮かんだり、思考の大半を彼に占拠されて温かい気持ちになったり、自分の事よりも優先したいと思ったり……それも全ては目の前の彼の所為。
僕の為に苦手な料理を頑張ってくれて、僕の誕生日を我が事のように喜んで祝ってくれる僕の愛しい恋人。
少し前まで自分にこんな存在が出来るなんて思ってもみなかった。他人と親しい関係になって喜ぶなんて、有り得ない事だと思ってたのに人って分からないものだな…。

掛け値なしに美味しい食事に箸が進む…しかし食事が進むにつれ対面に座る獄寺の様子がおかしくなっていった。
口に箸を運ぶペースが間遠になり、やがて完全に止まってしまい、ぼんやりとテーブルの上を見ていたかと思ったらとうとう俯いてしまった。

「獄寺?…具合でも悪い?」

僕の問い掛けに首を振って否定する獄寺。僕は席を立って獄寺の側へと移動した。
椅子に腰掛けている獄寺のすぐ側に跪いて手を取り、下から彼の顔を覗き込むようにして様子を窺う。
獄寺は涙こそ流してはいなかったが泣き出す寸前みたいな顔をしていて…彼のそんな表情を初めて見る僕は突然の事に思考が付いていかない。
何か獄寺が悲しむような事をしてしまったんだろうか?と、焦っていると彼の口から意外な言葉が出てきた。

「…っ…ヒバリ…ごめん…」
「……どうしたの?」
「……オレ…お前に嘘付いてる事があって…お前の誕生日なのに…本当にごめん…」


「獄寺?」

余程言い出し辛い事なのか、嘘を付いていると謝ったきり、その後が続かない彼に呼び掛けた僕の声は、情けなくも震えていた。
彼の事を好きになって、付き合うようになって、今までの僕では有り得ないと思っていた事が自然になってきた近頃だったけど…こんなに情けない声が出るなんて…良くない想像ばかりが頭の中を占めていき、僕の心臓は早鐘を打ったように鼓動を早めていた。

何だろう…実は僕の事好きじゃないとか…?
そう想像しただけで、獄寺の手に添えている自分の手に汗が滲むのが分かった。
手を離さなきゃ…と思っているのになかなか意思に反して動かない僕の手……獄寺に気持ち悪がられるかも、と思った途端全く動かなかった手が自然に退けた。

僕が手を退けた途端獄寺の体が大きく震えて、ずっと俯いていたのに勢いよく僕の方を見た。
泣いてはいないが瞳は常よりも水気が多く、綺麗な緑の瞳はゆらゆらとその下で不安気に揺れていた。
必死な眼差しが何かを強く訴えかけていたが、そこから彼の嘘とやらを見抜く事は出来なかった。

「ヒバリ…ゴメン…今日のご飯…本当はオレが作ったんじゃないんだ…」
「…え?」

てっきり彼が作ったものだと思い込んでいた。
全く気付かず「美味しい」を連呼しまくってたし…。
呆然とする僕に向かって獄寺の告白は続く。

「…自分で作ろうって思ってたんだけど、どうしても上手くいかなくて……山本に作ってもらったんだ…」
「!!?」
「ヒバリっ…本当にごめんな…」





馬鹿な事をしたって自覚はある…。

ヒバリの誕生日を数日後に控えたある日。
オレは調理器具や食器、調味料、食材。ヒバリの好きなハンバーグを作る為に必要な物を一から揃えて、誕生日当日に向けて特訓をしていたのだが、結局当日の朝になっても一度もまともなハンバーグを作る事は出来なかった。
すでにヒバリに手渡していた招待状には、期待させるような事を書いてしまった手前、ケータリングの類では済まされないと思い、苦肉の策…野球バカの召喚と言う奥の手を使ったのだった…。
今朝山本を呼び出してヒバリが来る直前に仕上がるようにハンバーグを作らせた後、家から追い出し、何食わぬ顔でヒバリを迎えたんだけど……だけど、嬉しそうに山本が作った飯をオレが作ったって思って食ってるヒバリを見てると申し訳なくなって……それに、そんな資格無いのも分かってるんだけど、山本が作った飯を美味そうに食べてるのが悔しくて…悲しくて…自業自得なのに我慢できなくなっていった…。

自分で勝手に行動した事で落ち込むなんて、サイテーなオレの体調をヒバリは心配までしてくれている。
そんなヒバリにを騙す事は出来なくて、嘘を付いている事を打ち明けた。


「獄寺?」

正直に話して、許してもらえるか分からないけど、きちんと謝らなくてはいけない。
オレに話し掛ける時のヒバリの声はいつもすごく優しくて、心地良くて…その声を聞くだけでオレは幸せな気持ちになっていたのに…今もいつもと同じようにオレの名前を呼んでくれているのに、耳に届いた声はいつもと違って…それがこんなに怖いなんて…。
馬鹿だって罵られたり、呆れられたりするくらいなら自業自得と納得する…でも、嫌われたりしたら…別れを切り出されたらどうしようって考えると、どんどん怖くなっていった。
頭の中はサイアクな想像ばかり…。

オレの体調が悪いんじゃないかって心配して、ヒバリが手を握っていてくれたのに、その手が離れていく。
ヒバリのその行動にオレは情けなくも体が震えるのを抑える事が出来ず、引かれた手を追いかけるように思わずヒバリの方を見てしまった。
情けなく潤むオレの瞳とは対照的に、真っ直ぐで綺麗な…オレの大好きな黒い瞳…その瞳を見て…最悪な事態になったとしても正直に打ち明けなければ、と思ったんだ。




「山本武が作った……?」

オレの話を聞いて呟いたヒバリの声はやっぱり硬いままで…オレはただ謝る事しか出来なかった。

「うん…ごめん」
「家に上げたの?」
「うん」
「二人きりで?」

「…え?」

…ヒバリの声は聞こえていたが意味が分からず質問を思考の中で反芻していると、ヒバリが重ねて訊ねてきた。

「この部屋で二人きりになったの?」
「?…うん」
「僕が今日初めて来たこの部屋に…僕よりも先に山本武が来て、彼と二人きりだったの?」
「…う…うん」

一体それがどうかしたんだろうか…?

「…ヒバリ?」
「何?」
「怒ってる…よな…?」
「怒ってるよ」

やっぱりそうだよな…。
嘘を付いた事を詰られるかと思ったが、予想と違う反応で…つい口に出して聞いてしまった。
分かっていた事とは言え、実際にヒバリから直接聞くと、心臓にギュっと痛みが走る。

ぽたり。と膝の上に雫が落ちて丸い滲みが出来る。
泣くなんて情け無い事だって分かってるし、ヒバリが余計に鬱陶しく思うって事も充分分かっているんだけど、もう自分の努力だけでは堪え切れなくて…せめて泣き顔は見られたくない。と、顔を背けた。
本当オレってバカだ。取り返しのつかない事をしてしまったと今更後悔したって遅い。
オレがヒバリを裏切ってしまったんだから…。
自分の考えに涙が余計に溢れてきたうえに、とうとう鼻まで出てきて小さく啜った途端、両頬にヒバリの手が添えられ些か強引に顔の向きを変えられた。





獄寺の話を聞いてとても冷静ではいられなかった。
この子は自覚が足りないと言うか、危機感が薄いと言うか…自分がどれだけ魅力的か分かっていない。
自宅に男と二人きりになるなんて…しかも、山本武とだって?
二人がこの部屋で過ごした事を思うと、僕の中に醜い感情が渦巻いた。

獄寺を押し倒して無理矢理にでもその体を僕のものにしてしまいたい…自覚の無い彼に、自分が誰のものかと言う事を嫌と言うほど分からせてやりたい。
滅茶苦茶にしたいと思う自分と、獄寺の事を傷付けたくないと思う気持ちが自分の中で綯い交になって…。
そんな自分でも持て余す感情を抑えている僕に向かって獄寺は「怒っているか?」なんて呑気な事を聞いてきた。
怒っているに決まっている。よくもそんな事が聞けるな、と更に怒りが増していく。

このままでは彼を傷付けてしまいそうで…何とか自分を静めようとしていると、獄寺の様子がおかしい事に気付いた。
慌てて彼の顔を見ると、僕の大好きな綺麗な瞳からポロポロと涙が零れていた。

「獄寺…」

今まで自ら滅茶苦茶にしてやりたいとまで思っていたのに、実際に彼の悲しんでいる顔を見るとまるで自分の事みたいに…いや…自分の事以上に悲しくなった。

「獄寺…ごめんね。お願いだから泣かないで」

先程までの激情が嘘のように静まって、そして彼の涙を止める為僕の口からは自然に彼を慰める言葉が出ていた。
それでも獄寺の涙は止まらない。

「……何でお前が謝るんだよ。悪いのはオレだろ。お前に嘘付いて…」
「だって…みっともなく焼きもち焼いて君に当った」

そう僕が言った途端、潤んだ瞳を見開いて、驚いた顔で僕を見る獄寺。
一体どうしたんだろう?

「お前…妬いてたの?」
「…そうだけど」
「何でだよ?別に妬く必要なんて無いだろ?それより嘘付いてた事怒んねぇの?」
「それこそ何故?まぁ、君が努力してくれたらしい事は分かったし。それで充分嬉しかったよ。…それより僕以外の人間と、しかも君の部屋で二人っきりになってた事の方が僕にとっては問題なんだけど」

すっかり涙が治まった獄寺は、複雑そうな…何とも言い難い表情で僕の事を見ているけど、僕はおかしな事を言っている訳ではない。

「お前…訳分かんねぇ…。オレがアイツと何かあるなんて、想像の中でも止めろよな。有り得ねぇから」
「君は…本当に分かってないね…。兎に角!この家で僕以外の人と二人きりになんてならないで」
「…まぁ今までだって人を呼んだ事なんてなかったし別にいいけど」
「うん。分かってくれたんならいいよ」

獄寺の涙の跡が残る頬に手を添えて親指で撫でる。
そっと顔を上向ければ、ゆっくりと瞼が下ろされてそれに誘われるように唇を寄せた。 まずは濡れて重くなった睫毛に縁取られた瞼。次いで、未だ赤い鼻の頭。最後に唇。
今日初めて触れたそこは涙の味がした。

触れるだけのキスで顔を離すと、いつもよりあっさり離れた事を疑問に思ったのだろう獄寺が薄っすら目を開けて僕の方を窺っていた。
「あれ?もうお終い?」彼の視線からそんな言葉が聞こえたのはきっと気のせいじゃないはず。
思わず笑って「しょっぱいね」と言えば、耳まで真っ赤になってしまった。

「し、仕方無ぇだろ……。あ!ケーキがあるぞ!ちゃんと店で買ったヤツ!」

思い出した途端キスの余韻も無くキッチンへ駆け出した獄寺。
少し前と同じく、やはり慎重な足取りで小振りなホールのケーキを持ってきた。

真っ白な生クリームに覆われ、艶やかな赤いイチゴが沢山のった小さな丸いケーキ。
真ん中にはチョコレートのプレートが乗っていて、そこには「きょうやくんおたんじょうびおめでとう」と書かれていた。
苦笑する僕に対して彼は鮮やかに笑い「チョコはお前が食っていいぞ」と、このケーキの唯一を僕に進呈してくれた。

「口直しだ」

生クリームを指で掬って舌の上に載せ、そのまま瞼を閉じて唇を寄せる獄寺……呉れたキスは蕩ける様に甘かった。




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2009.5.13


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