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耳に飛び込んできた微かな音…枕元に置いた携帯電話が鳴っているのだと気付いたが、面倒で無視する。
しつこく鳴り続けるその着信音に僕のイライラがピークに達した頃、その着信音が僕の携帯電話に登録されている数多の人物の中でも、特定の人物用に設定された音である事に気が付いて、慌てて携帯電話を掴んだ。
『…ヒバリ?』
「うん」
電話を掛けてきたのは僕が通う中学の養護教諭である獄寺だった。
『熱が出て休んでるって草壁から聞いて…』
「うん。今朝から急にね…風邪みたい」
通話口に当たって感じる自分の息が常よりやけに熱く感じる…。
頭の中に靄が掛かったような感覚だったが、そんな中でも彼の声は鮮明に僕の中に入ってくる。ちょっと気分がすっきりしたような気がした。
『オレ、見舞いに行く』
「え?」
突然の彼の申し出。
嬉しい…すごく嬉しいけど…。
「いいよ。うつるといけないし」
『お前誰に言ってんだよ?オレ一応医者の資格もってるんだぞ。それにさ…病気の時って…なんか心細くなるっていうか…人恋しくなったりしねぇ?』
「…そうなの?」
『そうなんだよ。先生には何でもお見通しだ』
彼は小さくふふっ、と笑った。
…嘘ばっかり…僕の気持ちなんてちっとも分かってないくせに…。
『とにかく!オレの保健室はお前の所為で風邪が大流行してる時期だってのに、閑古鳥鳴きまくりなんだからな。でっかい注射持ってお前ん家に行ってやるから待ってろよ』
今時子供にだってそんな脅し文句利きやしない。
獄寺は一方的に告げると僕の返事を待つ事無く通話を終わらせてしまった。
諦めの溜め息をついたところで手に持つ携帯電話をやたらと重く感じ、放るようにしてそれを手放した。
うとうとし掛けたところで先程と同じく獄寺専用の着信音が再び鳴り始めた。家に着いた事を告げる彼からの連絡だった。
僕は熱で力の入らない体を叱咤し、布団から身を起こす。
出迎えた彼はいつも白衣の下に身に着けているスーツと、カジュアルなファー付きのアウターという姿で、そのいつもと違う見慣れない姿に何だか僕はどぎまぎしてしまった。
そして外の寒さのせいで赤くなった彼の鼻先は、思わず口付けたくなる程に可愛らしかった。
「大丈夫かよ、ヒバリ?何か顔赤いけど…」
そう言って僕の額に手を当てた獄寺。
彼の手は外気に晒され続けたせいですごく冷たくて思わずその冷たさに体が震えた。
「あ!悪ぃ…」
情けなくも震えた自分の体に舌打ちしたくなった。せっかくの彼からの接触を自らの失態によって台無しにしてしまったのだ。
本当に申し訳なさそうにする彼に「気にしないで」と返し、客間へ彼を通す。
「ヒバリ。布団に入れよ。オレに構わなくていいから」
「そうは言ってもね…」
彼の目の前で臥せるなんてみっともない姿を晒したくなかった。風邪をひいて見舞いに来られるという事だけでも(彼と会えるという嬉しさはあるが)屈辱的な事だと言うのに…。
しかしそんな僕の思いを他所に獄寺は僕の背中に手を添えて客間から出てしまった。こうなっては大人しく彼の言う事に従うしかない。いい加減立っているのも辛かったので仕方なく僕が折れる事にした。
もっともこれは相手が獄寺だからであって、他の人間だったらまず僕に触れさせるなんて事ありえないし、ましてや他人に従うなんて…。
最初は用も無いのに保健室に入り浸る草食動物を追い払う為に訪れたはずなのに、その用が済んだ今でも殆ど毎日保健室を…いや、彼の元を訪れている。
始めの頃こそ、僕に対する彼の自然な態度に心地良さを覚えての事だったが、今では自分の気持ちがそれだけでは無いという事を自覚している。
僕が獄寺に対する気持ちを反芻している間、彼はと言うと、歩いている長い廊下に面した純和風の中庭を興味津々といった態で見ていた。
「イタリア人からしたら珍しいでしょう?」
「うん…なんかいかにも、って感じだよな…。でも、これが日本の一般的な家屋じゃない事くらいさすがにオレだって分かってるからな」
「へぇ、てっきりそう信じてるかと思ったよ」
彼は失礼な…とか何とかブツブツ言っていたが、あ!と急に大きな声を上げたかと思うと、中庭を臨む窓に張り付いた。
彼の綺麗なエメラルド色をした瞳がやけにキラキラと輝いて見えるのは、僕の気のせいでは無いだろう…。
「池がある!鯉とかいんのか?」
「まぁ、一応…」
「お前が元気になったら、また見に来てもいい?」
「…いいけど」
期せずして再来の約束を取り付ける事が出来てしまった…。
初めて家の庭に池がある事に感謝した。
そうしてようやく辿り着いた僕の部屋を、やはり先ほどと同じように興味深そうに見ていた獄寺は僕の顔を見てニコリと笑った。
「なんか、中学生らしくない部屋だけど、お前らしい部屋だよな」
他人に自分の事を詮索されたり勝手に想像されたりするなんて御免だが、彼には僕の事をもっと知って欲しいと思う…それは何だか妙に照れ臭くもあるけれど…。
そして今、彼が言ったことは正しく僕を理解してくれているようでそれも嬉しかった。
彼に促されようやく布団へと入ると、熱の所為でだるかった体を横たえる事が出来、思わずほっと息が漏れた。
獄寺は僕の布団の横に座ると手に持った袋と鞄からあれこれ取り出し始めた。
「熱測ろうな」
「いいよ。知ったからってどうなる訳でもないし…」
と言うのは無駄な抵抗だった…。
獄寺は何でも耳温計とやらに興味があったらしく、わざわざ家を訪れる途中で買ってきたらしい。箱に入ったそれを取り出していかにも「わくわく」という擬音が彼の周辺に見えるような様子だったので諦めて横を向く。
獄寺は白い手を伸ばして僕の髪の毛を梳くようにして耳に掛けた。熱い耳朶に心地良く感じる彼の冷たい指先。耳に小さな機械を差し入れられたかと思ったらすぐに計測音が鳴った。先ほどまでのご機嫌な表情から一転、それの表示を確認した彼の眉根がきゅっと寄ったのが見て取れた。
「…9度8分…結構高いな。ちょっと起きてもらっていいか?」
頷いて起きようとしたところで、彼がすぐに背中に手を添えて僕が身を起こすのを手伝ってくれた。
「そんな大袈裟な事をされると重病人みたいだ」
「そうだよ。知らなかったのか?」
なんてわざとらしく真面目な顔付きで言いながら獄寺は聴診器を取り出した。彼はチェストピースを自分の手で包んで暖めると寝巻きとシャツの間に差し入れて目を閉じて僕の体の音を聞いた。
彼の瞼が閉じられて僕は無遠慮に彼の顔を見詰める。
体調のせいだけでない鼓動の早さが彼に伝わってしまいそうだった。早まる鼓動を抑えようと努めるが…効果は無いみたいだ…。
「インフルエンザじゃないとは思うんだけど熱が高いのが気になるんだよな。簡易用のテストキット持ってきてるんだけど…鼻水調べさせてって言ったら嫌だよな?」
「絶対嫌」
そんなに僕の身体を心配してくれるんなら、ちょっとくらい僕の気持ちを慮ってくれてもいいんじゃない?
好意を寄せている相手に鼻水採取されて、調べられるなんて屈辱、僕には耐えられない。
「寝てれば治るんでしょ」
「とか言ってお前入院した事あるんだろ?こじらす前に的確に治療してた方がいいと思うけど…」
「何であなたがそれを知ってる訳?」
「草壁に聞いた」
草壁…咬み殺す。
「だからひどくなる前に診てやってくれって言われたんだ。いいヤツだよな、アイツ」
…草壁…咬み殺す。
「ある程度の熱は、体の悪いところを追い出そうっていう事だから無理に冷まさない方がいいとオレは思ってるんだけど…座薬入れてみたい?」
だから!さっきから!何故そんなに僕の嫌がる事ばかり提案してくるのかな?
面白がって言っているのは、子供っぽい彼の表情を見れば一目瞭然だが、全く気付かれていない自分の思いが、可哀想で何だか泣きそうだった。
「…咬み殺されたいの?…大人しく寝て、汗をかけばいいんでしょ」
「まぁ、そうだな。って訳で…はい、汗の元」
彼が差し出したのはスポーツドリンクだった。僕の枕元にある水差しにも入っている同じものだ。更に彼は持ってきたビニール袋をガサガサ言わせてリンゴやレトルトのおかゆ、冷却用シート等々を取り出した。
「要るもの聞いてからくれば良かった…何か食った?」
「いや…食欲無かったから…でも、リンゴ食べたい…」
あ。可愛い顔。
僕がリンゴを欲しがると彼は嬉しそうな顔をした。
「じゃあ。家の人にお願いして剥いてもらおう」
「ねぇ…先生が剥いてよ」
「は?」
「先生が剥いてくれたリンゴが食べたい」
彼はしばらく固まって頷いてくれた。
家の者にリンゴを切る為の準備をさせる。
獄寺は包丁とリンゴを手にすると、やけに真剣な顔でそれらを見詰めていた。
「どうしたの?」
「!いっ…いや!何でもない…。…いいか?切るぞ」
「?…どうぞ」
意を決したような態でリンゴに挑む獄寺だったが、包丁を動かした途端リンゴに傷一つ付ける事無く…包丁はリンゴの表面を滑るようにして、それを持っていた獄寺の指に当った。そして彼の指からみるみるリンゴよりも真っ赤な血が流れ始めた。
「…っ!」
「ちょ!ちょっと大丈夫!?」
僕は慌てて額を冷やす為に用意されていたタオルを取ると、彼の手を掴んで血が流れる彼の手を包んだ。
焦る僕を他所に彼は恥ずかしそうな顔をしてボソボソと小声で話し始めた。
「…オレ諸事情で料理関係全くダメなんだよな…」
「最初からそう言ってくれれば良かったのに…」
「…だって、お前がオレに剥いて欲しいって言ったから…。あっ!別にお前の所為だって言ってるわけじゃなくて…」
「分かってるよ」
分かってる。僕の所為なんて言いたいわけじゃない事くらいは分かってる…。
僕の所為じゃなくて、僕の為にって事くらい…僕がそれをどれ程嬉しく思うかなんてあなたはちっとも知らないだろうけど…。
「あ、ヒバリ!ほら、オレ縫合とかは上手いんだぜ。自分の手だってきちんと縫えるし」
黙ってしまった僕に何を勘違いしたのか見当違いな事を言い出す獄寺。
全く僕の気持ちに気付いてくれない…連日僕が保健室を訪れる理由を…彼の言う事に素直に、とは言い難いけど僕が従う理由も…彼はまるで気付かない。
獄寺はタオルを押さえる僕の手を慌てたように外させると、鞄から大きな絆創膏を取り出してまだ血が止まらない指にくるりと巻いて、急に荷物を纏めだした。
「…ご、ごめんな。見舞いに来たのにかえって面倒かけてる…。オレもう帰るからゆっくり寝てろよな」
立ち上がりかけた彼の手を掴む。
咄嗟の事でつい怪我をしている手を握ってしまった。痛みに顰めた顔すらも僕には魅力的に見える。絆創膏に収まりきれない彼の血が流れて僕の手を汚した。
「ヒバリ!血が…!」
「大丈夫。いいから座って」
「でもっ…」
「病気の時、人恋しくなるって言ってたでしょう?…側に居て、きちんと診てよ…先生…」
最後まで責任持って…僕の事を見て欲しい。
先生には何でもお見通しなんでしょう?…だったら少しは僕の気持ちを察して側に居てくれてもいいと思うんだけど…。
流れるあなたの血さえも愛しく思うこの僕の気持ちを。
終
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今日の1859第33弾
2009.1.21 1859net