前奏曲



微かに聞こえる音を拾いながら僕は階段を上る。
3棟ある3階建ての校舎の一番端に位置している音楽室から、校舎全体に降り注ぐようにして聞こえてくるピアノの音。
曲は有名なクラシック…有名と言っても僕は曲名なんて分からないのだけど…だったり、よく知ってる童謡だったり、TVCMで流れてて耳に残っている曲だったり、全く知らない曲…と言うかメロディだったり…。
兎に角多種多様な音を聞きながら、僕は校内の見回りを行っていた。

放課後、静寂に包まれた校内であれば、かなり遠くにいても聞こえるそのピアノの音は、ブラスバンド部の活動が行われていない時にのみ聞かれるものだった。
本来なら、部活動がない場合特別教室は施錠されているはずなのだが、この奏者はそうした時にのみ現れては実に楽しそうにピアノを弾いていた。
初めて聞いた時は音楽担当の教師が弾いてるのかと思ったのだが、その音楽教師が誰も居ないはずの音楽室からピアノの音がするのを訝しく思っているのを見て…どうやら許可を得てない者が弾いているらしいという事が分かった。
音楽教師は僕の存在に怯えながらも、聞こえてくるピアノの音に、その技術に感心していた。

今振り返ってもどうしてそんな事を言ったのかは僕自身未だに謎だが、僕はその正体不明な奏者の事は「放っておくように」と教師に伝え、校内の見回りを始めた…音楽室から聞こえてくるピアノの音をお供に…。

その日以来…時々こうして誰も居ないはずの音楽室からピアノの音が聞こえる時、僕は音楽室以外の校内を見回るようになった。
いつもの僕であれば直々に違反者を取り締まるべく真っ先に音楽室へ向かうところだが、聞こえてくる音は不快ではなく心地良くて、もっと、ずっと聞いていたいと思わせるものだった。
一体誰が弾いているのか…と言うのは常々疑問だが、敢えて僕はその侵入者を咎める事も、見に行く事もせずに、時々聞こえるその音を楽しんでいた。

試験期間中に突入した日。
僕の期待通りにその日もやはり音楽室からピアノの音。
音楽室がある棟とは別棟の廊下を歩いていて、ふと音の元へと視線を転じれば、僕の側によく居る小鳥が音楽室の開いた窓から室内へと飛び込んでいるところだった。
この音の主の事をあの鳥は知っているんだ…と、思った時、途端にその衝動が襲ってきた。
そうして僕は初めて音楽室へと足を向ける気になった。

音楽室からは曲が変わる際のわずかな瞬間以外は絶え間なく音が聞こえてきていた。
今までに何度か、この奏者の演奏を聞く機会に恵まれていたが、こんなに近くで聞くのは初めてで…今までよく誰が弾いているのかを確認しないで居られたものだと我ながら感心する程に、今はピアノの前に座る人物に興味があった。

扉に嵌めこまれた二重の小窓からそっと覗いてみる。
グランドピアノの蓋が開けられた状態で、弾いている者の姿を見る事は叶わなかった…残念なような…ほっとしたような、自分でもよく分からない感情を感じながら引き続き見ていると、先程窓からの侵入を果たした小鳥がピアノの淵に止まっているのが窺えた。

よく知る鳥の童謡が奏でられ、鳥の鳴き声の箇所で小鳥も鳴いているようだった。
最近歌のレパートリーが増えたと思っていたけど、まさかここで仕入れてきていたとは…。
楽しげに奏でられる音に自然と僕の体は動いていた。

無意識とはいえ、音をたてるような無粋な真似はせずに室内に入ったつもりであったが、小さな敏い生き物は敏感に僕に気付くと、いつものように僕の名前を呼びながら僕の元へ飛んできた。
それと同時に先程まで弾むように僕の耳に入ってきていた音がぴたりと止んでしまった。
何の隔たりもない状態で聞けたのもほんの瞬間だった…残念。
恐らく僕に注意されると思って演奏を中止してしまったのだろうと見当をつけ、気にせず続けてもらうよう口を開こうとしたところで、カタリと小さく椅子が引かれる音がした。

想像の中の彼の人は何となく女子生徒だと思っていたのだが、見え隠れする制服は男子のものだった。
そして、次の瞬間僕は驚きで一瞬動きが止まってしまう。
黒く光るピアノの向こうに居たのがうちの中学で一番の問題児…獄寺隼人だったのだから…。

呆然とする僕を他所に獄寺は一切此方を見ようともせずに鍵盤の上に布を掛け、蓋を閉じて…と、淡々と後片付けを始めていた。
僕はと言うとあまりに予想外の事態に思考が追いつかず、その自失っぷりに我ながら呆れるが、ピアノ全体にカバーを掛け終えた獄寺が僕の横を通り掛って、咄嗟に手を伸ばしていた。

掴んだ手首は思ったよりも細くて…それは僕の動揺を誘った。
手首から腕…肩、首…と辿って辿り着いた顔は、やけに硬い表情のままだった…。

「放せ」
「…どうして君が……」

思わず呟いた言葉に獄寺の体が緊張したのが手首から伝わってきた。

「悪かったな。男がピアノなんか弾いてて」
「…誰もいけない事だなんて言ってない」

本当は彼の姿を見るまでは漠然と女子生徒だろう…って、勝手に想像してたって事は内緒にしておこう。
何故だか知らないが彼にとって男がピアノを弾くというのは禁忌らしい。
そんなに卑下する事ないのに…実際に弾いている姿を見たわけではなかったけど、聞こえてきていた音はいつも楽しそうだった。
音楽の事に詳しいわけではなかったが、少なくともそれだけは伝わってきていた。
だから…

「もっと弾いてよ…」
「は?」
「弾いてるとこ…見たい」

僕の言った事が理解し難いのか、獄寺は目を大きく見開いて「え?え?」と、妙な声を発しながらうろたえていた。
常であれば、僕の前でそんな態度をとる者が居れば、問答無用でトンファーを振るうところだが、今目の前で脳内の処理が追いつかないらしい焦った彼を見ても不快感を覚える事は無かった。
掴んだ腕を引いて、ピアノの前に置かれた椅子に座らせる。
鍵盤の蓋を開け、上に被せられた布を取り、ついでにピアノの上に掛けられたカバーも外して床に放った。

「はい」
「いや…はい、って言われても…」
「さっきまで弾いてたみたいに…いつもみたいに弾けばいいだけ。何をそんなに躊躇う必要があるの?」
「………」
「人に見られてると緊張するとか?…まさか君がそんなに殊勝な性格してたなんて…」
「違ぇよっ!」
「じゃあ何?鳥には聞かせても僕には聞かせられない?」
「…何なんだよ…お前…」

獄寺はガシガシと銀色の髪の毛を掻き混ぜて渋面を作る。
本当に分かりやすいね…「訳が分からない…」と顔に書いてある。
まぁ、今まで風紀委員と不良としてしか会話を…いや会話なんて今まで成り立ってなかったな、そういえば…。
まぁ、兎に角そういう遣り取りしかしてこなかったのだから、彼が訝しく思うのも無理はないかな。
ちなみに、僕が何かって聞かれれば、今はこう答えられる。

「君のファン」
「へ?」

間抜けな声を発して再び目を大きく見開いて僕を見る獄寺。
よく見える緑色の瞳と銀色の睫毛は太陽の光を浴びてキラキラと眩しかった。
思わず感心してその目をじっと見ながら、理解が及ばない彼にもう一度先程と同じ事を繰り返す。

「君のピアノのファンだよ。獄寺隼人」

ようやく理解したのか、彼の白磁のような肌がみるみる赤味を増していく。
それは実験で使う試験紙みたいに見事な変わりようで、とうとう僕は笑いを堪えきれずに噴き出してしまった。

「っな!!?からかってんのかよっ!」

眉間にきつく皺を寄せて怒鳴る獄寺。
でも耳まで赤くて迫力なんてまるで無い。
普段なら煩わしく思うはずのそんな彼の態度が、可笑しくて仕方無い。
それにしても、からかっていると思われてるなんて心外だな…。

「違うよ。そうじゃなくて…本当にただ君のピアノが聞きたいだけなんだけど…」
「……っ」

僕の言葉を遮るように両手で耳を塞ぐ彼。その顔を覗き込むと、今度は両手を顔に移動。
目の前に晒された手。
あぁ…この指があの音を生み出しているんだ…そう思うと、すごくこの手が大事なモノに思えてきた。

直近では、一昨日服装の乱れに喫煙で校門前で咬み殺した覚えがある。
今まで全く躊躇い無く彼に制裁を加えてきたのだけど、彼のこの指を傷付けていたとしたら、僕は少なからずショックを受けただろう…。
彼の手を見ながらそんな事を考えていると、不意にその指の隙間から「あんまジロジロ見るな…バカ…」と何とも頼りない声が薄っすらと聞こえた。

「お前…それマジで言ってる?」
「それって?」
「…その…オレのピアノの……ふ、ふ、ふ…」
「ファン、でしょ?…妙な笑い方みたいになってるよ」
「う、うるせぇ…」

ようやく両手は外されたが、やっぱり迫力なんてまるで無かった。

「いいから早く弾きなよ」

僕がそう言うと彼は諦めたように一つ溜息をついて、鍵盤へと向かう。
小さく深く深呼吸をして、どうやら気を落ち着けているらしい彼の顔はようやくいつもの顔色に戻っていった。

「何が聞きたい?」
「何でもいいよ。いつも弾いてるみたいに…クラッシクやCMの曲や…この子に教えてたみたいに…」

頭上にいる小鳥が、自分の事だと分かっているのか、タイミングよく小さく鳴いた。

彼が小さく笑って弾き始めた曲は校歌だった。
あれこれアレンジを変えて何度も演奏されたそれは確かに僕の為に奏でられた音だった。





小さい頃、ピアノを弾く事が大好きだった。
切欠はピアノを教えてくれた人の事が大好きで…。
色んな理由から一時期離れていたけれども、嫌いにはなれなかった。

放課後。
生徒が帰宅し、普段よりも人が少ない校内。
施錠された音楽室に忍び込んでピアノを弾くようになった。

大嫌いなビアンキのクッキーも、面識も無い大人達の前で弾くわけでも無い、自分だけの演奏会は楽しくて、度々オレは音楽室に入り浸るようになってしまった。
幸い誰からも咎められる事は無く、小さい鳥だけが唯一の聴衆者。
その小さな鳥は、時々オレの伴奏で歌ってくれる立派な歌手でもあった。

ある日その鳥の飼い主が音楽室にやってきた。
初めの頃は警戒していたが、何度繰り返しても一切邪魔者が入らなかったので、すっかり油断しきっていて、ソイツが側に来るまで全く気が付かなかったオレ。

並盛中の風紀委員長であるソイツはオレの事を注意しに来たのかと思ったが、何をトチ狂ったのかオレのピアノのファンだ、なんて言い出だして…。
以来、自分だけの演奏会は、ヒバリの為の演奏会になってしまった。


そして最近ではサボり場所のローテーションに応接室が入る程…と言うよりサボる際には最近殆ど応接室を訪れる程、オレはヒバリと慣れ合っていた。
以前までは一生相容れる事なんか無いって思っていたのに、人って不思議だ…。
一緒に居るようになって気付いたんだけど、コイツの側は結構居心地が良い。
応接室は快適だし、ヒバリのお陰で近辺は静かだし、ヒバリ自身も風紀委員としてじゃなければ意外に付き合い易かった。

今日もヒバリが不在の間に勝手に応接室に入り込んで、黒革のソファで昼寝をしていると夢現の中でヒバリの声が聞こえた気がした。
それに普段は静かなこの部屋が幾分騒がしい。

「…ヒ…バリ…?」
「あぁ…来てたの。…煩かった?」

ヒバリはソファに横になるオレに気付くと、オレの顔に掛かった前髪を指でそっと掻き分けた。
コイツは群れるのが嫌だとか何とか言いながら結構スキンシップが多い。
こうやって自然に触れては優しい目でオレをみるものだから、何だかオレはドキドキしてしまって仕方無い…。
こんな事その辺の女にやってたら皆ヒバリに惚れてしまうのではないだろうか…?実際バレンタインデーにはかなりの量のチョコを貰ったらしいし…。
オレが応接室に来るようになってからも、何度か勇者な女子がヒバリの元を訪れているのを見たりもした。
ヒバリが何と返事をしているのかは不明だし、もしかしたら付き合ってるヤツがいるかもしれない…でも、毎回何だか聞き辛くて、結局何も知らないままオレは時々ヒバリの為にピアノを弾いて、日々応接室でサボって…と言う日常を繰り返していた。

横になったままぼんやりとヒバリの顔を見上げていると、入り口の方から何やら大きな音が聞こえる。
身を起こして其方を見ると…大きな物体が運び込まれているところだった。

「…ヒバリ?」
「何?」
「…あれ…ピアノに見えるのはオレの気の所為か?」
「どう見てもピアノだけど?」
「……何で?」
「アップライトで悪いけど、これならいつでも弾けるでしょ」
「は?」
「だって、いつも誰も居ない放課後しか弾かないなんて勿体無いじゃない。此処でダラダラ寝てるくらいなら時々でいいから弾いてよ」

ちょっ…ちょっと、待て…。
まさかオレに弾かせる為だけに此処にピアノを?…いや、いや…まさか…。

「獄寺…?…もしかしてアップライトじゃ嫌だった?」

そう聞いてくるヒバリの表情は心なしか不安そうな顔に見える…。
まさかコイツがこんな表情をするなんて…オレの心の中は驚きで一杯だった。
だって、自分が秩序。と言い切るような男が、まるでオレのご機嫌を窺っているみたいな事を言い出したのだから…。

「獄寺?」
「あ。ごめん…そうじゃないんだ…」

別にアップライトのピアノが嫌で返事をしなかった訳では無い。
本当にオレが弾くピアノを好いてくれているんだ、って改めて知って嬉しいし、その為にこの部屋にわざわざピアノを置いてくれたのも…それがアップライトのピアノだって関係なく嬉しい。
ふとコイツがこんなにもオレにピアノを弾かせたがる理由は何だろう…?って、改めて考えてみたんだ。
ヒバリに聞けば答えてくれるのかもしれない…でも、それで素直に「君のピアノが聞きたいから」って言われたら…。

ずっと前にそんな事言われても信じなかった。
少し前は素直に喜べたと思う。
でも、今は……きっとそれだけじゃ足りない…。

きっと「ピアノ」だけを気に入ってくれても満足出来ない…。
じゃあ…ピアノを弾かないオレは?
その答えを聞くのが怖くて…そんな風に思う自分の臆病さ加減に苛立った。

そんな自分を振り切るように、ヒバリがオレの為に用意してくれたピアノを、ヒバリの為に弾く。
今のオレにはそれしか出来なかった。



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title by 茶流さま
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2009.7.7

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